「旅順が見えます!」
203高地の思い出。
203高地といったらこの風景なんですよね、ワタシ的には。
山頂から、眼下に見えるのが、旅順の町と港。
もう10年以上前の話だけど。
ちょっとしたイベントに紛れて中国旅行いったんですよ。私が最年少なくらいの高齢女性ばかりの団体で。
北京と大連に宿泊して、万里の長城とか天安門とか人民大会堂とか。
戦跡巡りもして、203高地や東鶏冠山なんかも見て回った。
当時は、日露戦争にちっとも興味なくって、はるか昔に学校で観させられた『二百三高地』の映画の記憶が仄かにあるくらいだったんですけどね。
今から思えば、もっと、写真、撮りまくっておけばよかったなあと。
まあ今だって、せいぜい『ゴールデンカムイ』の背景ってくらいでしか知らないっすけどね、ははっ
だけど、当時、203高地の山頂に立ってみると、わけもなく感動したもので。
その感動の正体について、あーこれは厨二病か、と最近になって気付いた。
山頂から望むと、旅順の町が、手で一掴みにできそうに感じられるんですよ。
日露戦争における旅順攻囲戦ってのは。
旅順なんて満州の南の果ての遼東半島のさらに先っちょで、陸軍の戦略的にはあんまり意味がない。
だけど、バルチック艦隊が到着して旅順に立て籠ってる艦隊と合流すると、日本のシーレーンがヤバくなる。
合流する前に旅順の艦隊を叩かねば!
しかしロシアは旅順の周囲に鉄壁の防衛網を築いてアナグマ状態。
地図眺めてた日本の参謀がふと気付くのですよ。あれ、もしかして、203高地に陣取れば旅順の町が丸見えじゃね……?
そこから測距観測して、旅順を包囲した大砲を撃てば、艦隊に当てられるんじゃ?
28サンチの対艦砲は東京横浜のお台場から調達してきた!
さああとは203高地を占領するだけだ。まずは様子見で突撃かけたら、ロシア側も203高地の意義に気付いちゃったよ! あっという間に防御陣が分厚くなったよ!
しかも日本軍はなぜか毎月26日になると総攻撃かけてくるってことにも気付かれちゃったよ!*1
文献からうかがうに、つくづく、旅順攻囲戦の有様って凄まじい。
砲弾と死を掻い潜り、鉄と火薬と血と肉片の雨を浴びながら、山頂に辿り着いて、あの光景を目にしたときの想いは如何許りかと思うとねー。
(金神の)鶴見の想い、その後の怒りも、なんか理解できるんだよな……
いや軽々しく「ワカル」つーのも不遜だが。
どうせ非実在中年だし。
彼を突き動かしここまで運んできた大きな力が、今、あの光景を、この大戦の帰趨を掴み取ろうとしている。
荒れ狂う死と暴虐が、戦雲を駆り、人を山に登らせ、船を沈め、地を揺るがす。
彼我の骸の山を築き踏みしだいて得たのは、寒風と荒野に立つ墓標。
行き場を失った力は怒りとなって腹の底にわだかまる。
*2
その他現地で撮った写真のうちから日露戦争関連のをいくつか。
そういやこの写真撮ったときは、まだ、日露戦争から100年経ってなかったんだな。
山頂のモニュメント。
203にかけて、爾霊山て書いてある。乃木希典が命名したらしい。
謎の機関砲。……これホントに日露戦争当時のもの???
下の駐車場の案内板。
現代の観光客が登れば徒歩で10分もかからない丘なんだけどねえ。
記念館にあったジオラマ。
東鶏冠山のほう。
永久堡塁。
本格的な塹壕戦というのも、この日露戦争で確立されたんだそうで。
これも「旅順攻囲戦」というと決まって出てくる、東鶏冠山の堡塁の爆破跡。
水師営。
旅順が陥落した後、日露の司令官が会見して降伏文書に調印した場所。
『水師営の歌』なんてのまで作られた。
同行のおとっしょりの皆様が口々に歌ってましたわ……
*1:日露戦争の期間を通じてずっと、日本軍は失策に失策を重ねたようだ……でもロシアはそれ以上に失策の連続だったので、結果的には日本に有利な条件で終戦の条約締結に至った。なにより「アジアの小国がヨーロッパの大帝国に勝った」という宣伝文句が国際的に重要だった。
*2:正直、旅順占領の意義はどこまであったんだろ。旅順艦隊もバルチック艦隊も海戦前にボロボロだったし。大局を見ると細かい勝利の積み重ねと国際世論を味方につけてロシアも革命騒ぎがいよいよ激化してきて対日戦なんかやってらんないってことで判定勝ちってとこなんだろうけど。だけど最前線で死線をくぐった兵達は皇国の興廃はこの一戦に在りと信じなきゃやってられんわなあ。