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日々是々

1902年八甲田山雪中行軍遭難事件

ゴールデンカムイ面白い→明治陸軍について調べる→明治陸軍といや八甲田山事件→文献漁る ……という経緯で、目下のマイブームなのが、八甲田雪中行軍遭難事件。

最低限のあらまし。
1902年(明治35年)1月下旬、日露関係が気まずくなってやっぱり開戦か?ってころ。青森第八師団・第5聯隊の1個中隊分210人が八甲田山麓の演習中に遭難して、199人死亡、生還したうち8人は重症で除隊、ほぼ無傷だったのは3人だけ。
近代の山岳事故では世界最悪の大惨事に。
――という出来事。
もうちょっと詳しくは→八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia

戦争という歴史上の大きなストーリーの中の出来事ではなくて、あくまで平時の業務上の事故なんだ。
軍人達の話なんだけど、スパイの暗躍だの、銃弾がいきなり飛んで来るだの、地雷原をおっかなびっくり歩くだのって、そういう、殺し合いの挙句の死ではないぶん、純粋な悲劇として気楽ではある。
政治とか外交とか面倒くさい局面は関係なく、軍隊とその周辺の一面が伺えて興味深い。

ポイントは、

  • 本来のリーダーより階級が上の人がいたせいで指揮系統がメチャクチャ。
  • 企画した連隊長から下っ端の兵卒まで、冬山をナメすぎ。
  • 冬山コワイ。救助捜索隊まで遭難しかけた。
  • 冬山初心者には最悪の日。
  • 恐怖のワンゲルワンダリング。
  • 倉石大尉、不死身すぐる……
  • 山口少佐の死の謎。
  • 遭難した第5聯隊とは別に、第31聯隊も同時期に同じコースを逆から行軍してるけど、こっちは辛うじて全員無事に生還した。
  • 「2丁の小銃」の行方と、靖国問題
  • 天皇の利用法。
  • 第5聯隊のファイナルデスティネーション。

こういった細部が面白くて、ただの悲惨な事故という以上に、当時の世相や軍隊ってものなどを物語る。

八甲田山死の彷徨』

まずは新田次郎の小説から。
いきなり小説を挙げちゃうけど、これが一番有名ではある。

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

あくまで小説なのだ。登場人物もほぼ仮名だし、序盤の、第31聯隊と第5聯隊の隊長の会話、競り合いもフィクション。
そして終盤の、2丁の三十年式小銃の行方もフィクション。
とにかく大隊長の山口少佐(仮名)が諸悪の根源のように、とことん悪し様に書かれてるのだが。
かといって他の軍人達も情け深い人達ってわけでもなく、第31聯隊の福島大尉(仮名)の終盤の、地元案内人達に対するヒドイ仕打ちなんかもしっかり書かれてる。

八甲田山の映画はこの小説が元なので、概ね、小説の筋に沿ってる……けど、福島大尉(仮名)は高倉健がやってたので、原作ほどのヒドイ人には描かれてなかった気がする。
山口少佐(仮名)が三國連太郎なんだよなあ、横暴なリーダー役はイカニモってカンジだ。
その山口少佐(仮名)に振り回される、本来の行軍のリーダー神成大尉(仮名)は北大路欣也
この映画、夏場になると決まってCS放送で放映したりする暑気払い映画の筆頭なんだよな……(最近は、『剱岳 点の記』ってライバルもある。これも原作は新田次郎

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新田次郎の小説には、元ネタがあって。
小笠原孤酒という研究家が、自費出版で研究本を出した。
『八甲田連峰吹雪の惨劇〈第1部〉前夜編・行軍編―悲劇の歴史を再現する』


『八甲田連峰吹雪の惨劇〈第2部〉遭難編・葛藤編―悲劇の歴史を再現する』

孤酒は新田次郎にも取材協力をしたのだけど、新田のほうが圧倒的に売れてしまったので、結局、5部作の予定が2部+写真集3冊出したとこで亡くなってしまった……のだと。

……てか、この小笠原本、Amazonで売ってるってことにまずビックリ。
ちょっと迷う値段……

孤酒、新田がフィクションとして書いたこと、更に行軍訓練を「人体実験」と称したことに憤慨した、ともいうけど……
しかし、元々、孤酒がノンフィクションとして本を出すので、新田にはあくまでフィクション、小説として出す、ってそもそもの取り決めがあったという説も。
孤酒の書名、「悲劇の歴史を再現する」って部分にそこはかとなく不吉な予感。完全にノンフィクションとして書くなら、こんな書名つけないよなあ。
だって、過去の歴史の出来事を「再現」なんか出来ないもの。膨大な史料から読み取れる、いくつもの可能性を提示して、自分が最も妥当と思う説を挙げる、ってのが歴史家の仕事だし。
つまり孤酒も、本当の歴史家ではないのだよね。

……と思ってしまったのは後述の、松木明知の著作読んだせい。

『遭難始末』

事件について、一番に重要な文献は、実は、ネットでタダで読める。

国会図書館デジタルアーカイブん中にある、『遭難始末』

2019年2月21日:
EPUB化しました。
1902年八甲田山遭難事件『遭難始末』 - day * day

陸軍が一般に公表した唯一の公式報告文書で、遭難事件のあらましから救助捜索活動の詳細が記されてる。
NDLにあるのは、1902年7月23日、慰霊祭の日付に合せて出版された最初の版。この後何度か改訂されつつ復刻されてる。

最初の版、まず4部作った後で、大人の事情で付録も合せて出版されることになって、後は合本されてるそうな。
だからNDLに収録されてるのは、ホントに一番最初の版、陸軍大臣なんかにまず配られた4部のうちの1部ってことになるのかな。
レアといやレアなんだが、ネットで誰でも読めるってあたりが、いかにも21世紀って、テクノロジーと社会の進歩を実感する。

「唯一の公式本」だけに事件について最重要の文献なんだけども……
とにかく軍の公式本なだけに、軍にとって都合の悪いことは一切書かれてない、どころか細部の歪曲や捏造まであるというのが、現在の定説のようだ。
例えば、山口少佐の横暴っぷりとか。
遭難した兵士達が、小銃の木の部分を燃やして暖を取ったって説とか。
「徴兵で取られた若者を、戦場ならまだしも訓練中の事故で大量に死なせるなんてヒドイ」って世論が沸騰したので、それを宥めるために、とにかく天候が悪かった、天皇も深く心を悼めておられる、この件の死者も戦死者として顕彰する、という点を強調してるという。

そういう大人の事情はさておき。
ミリタリにちっとも詳しくない私としては、当時の陸軍についての資料として興味深い。

捜索隊の食糧事情についてとか。(P51……ページは元の本のではなくNDLアーカイブのページ)
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左側の赤枠のおかず、

牛肉、佃煮、塩鮭、鰈付焼、鯣付焼、焼鱈、牛蒡、藟子、奈良漬、南蛮漬、大根漬、梅干等

「藟子」ってライチらしい。当時は台湾占領中だから、トロピカルフルーツが割と一般的だったのかな。
「鯣」ってのはスルメ。……の付焼????

右の赤枠。「改正飯盒」っていうのは、今いう「飯盒」、あのアルマイトの腎臓型のやつのことらしい。
じゃあそれ以前の「飯盒」ってどんなんだ、って思うと、木製だったり漆塗りだったりの、弁当箱を「飯盒」(軍隊用語)といったようだ。文字面通りの飯の「盒(蓋付の物入れ)」。
で、炊爨所で大鍋でいっぺんに飯を炊いて、その弁当箱に入れて各人に配ってた。
ところが前線だとそれじゃ効率悪い。で、今言う腎臓型の飯盒が、ちょうどこの頃に使われだして、各人で飯を炊いて喰えるようになって、効率アップしたってことらしい。

しかし、飯盒炊爨(はんごうすいさん)なんて言葉!
私が小学生の頃、林間学校のときに耳にしたような……どんな字なのかまるで知らない、「林間学校のしおり」でも、かな書きされてた。
こんな字書くんだよなあ、と長じてシミジミと。
(あんまり一般的でない、旧軍隊用語が、学校んなかに残ってるってのも面白い。明治時代以降の近代日本の作り方の過程を垣間見るようでちょっと興味深い)

こんな言葉が急に出てくるとビックリする。
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携帯電話だとぅ? 明治35年に……
……たぶん、据置型の電話機に対して、移動できる野戦電話みたいな電話機(有線)のことだろうけど。

電話といや、こんなネタがあったが。
無人の別荘から謎の119番通報。しかも場所はあの“八甲田山”
1902年当時は、ダイヤル式の電話なんかないし、電話を掛けるといったら、「HeySiri」交換手呼出して「どこそこ」って直に相手の名前を告げて物理的に電話線つないでもらう形式で、119番どころか電話番号自体ないので、当時の兵隊さん達、緊急電話の掛け方知らないはず。

その他にも、各哨所の作り方とか、雪壕とか、川を堰き止めて死体を回収する水柵とか、図面で開設されてる。

本文末尾のほうに(P124~)死者の一覧表が戸籍の住所まで付けて載ってる。
現代の名簿と違うのはいちいち身分まで書いてるとこ。士族・平民・華族と。
行軍隊の本来のリーダーの神成大尉は平民で、陸軍士官学校ではなく嚮導団出身の、叩き上げの人。
士官学校はほとんど士族か華族が行くのだそうな。
水野中尉は、行軍隊で唯一の華族だったそう。
現代の感覚からすると、こういう身分ってプロフのネタ以上の意味もない気もするけど、当時はもっと面倒くさかった。平民の兵卒が死ぬのはただの事故だけど、華族の将校が死ぬのは事件になる。

生還者の中で最も軽症だった倉石大尉。
八甲田山』の映画では加山雄三がやってたキャラなんだが。
この人が不死身すぎる。
他の将校達も次々行動不能になる中で実質リーダーとして振る舞って、大隊長の世話までして、軽度の凍傷だけで済んで、救助されてからも早々に退院して聯隊に復帰して、捜索隊に加わってるっていう。
彼が無事だった理由の一つに、唯一、ゴム長靴履いてたから、ってのがある。

当時の兵士の標準的な装備、軍靴って短靴なんだな……特に深くも考えずに長靴だと思ってた。*1
で、その上にゲートル巻くか、寒い時は藁製の雪沓。オーバーシューズでなくて靴下の上に藁靴だと。
雪が溶けて浸透して凍って凍傷になるというケースが多い。
装備品の表を見ると、将校はウールの軍服や防寒外套なんだけど、下士以下は木綿の制服とある。案の定、将校のほうが助かってる割合高いのだ。
防寒装備についても徹底されてなくて、演習を企画した連隊長も、指示した神成大尉も、兵士達も、冬山の天候をナメてたってこと。

地図で見ると、出発地の第5聯隊本部から、目的地の田代温泉までせいぜい20キロ、高低差700mの緩い一本道の斜面でしかなくて、夏場なら日帰りできる行程でしかないんだ……(歩兵の行軍は1日60キロとかで計算される)*2
しかーし事件当日の1902年1月24日っていうのは、旭川で氷点下41℃って、日本の観測史上最低気温を記録した日だったりする。
100年経った今でも破られてないそうな。

付録の美談集が、ある意味では、この文書の一番のキモかも知れない。
この事件のせいで陸軍の人気ガタ落ちするのは目に見えてる。現に志願兵や陸軍士官学校希望者も減ったし徴兵逃れも増えた。
日露開戦を間近に見据えた時期だけに*3、軍は必死になって慰撫宣伝に努めた、その一環として、美談をまとめた。
この『遭難始末』全体が、歴史家や研究家向けの資料ではなくて、軍の自己弁護のための言訳とも受け取れる。

美談集の最初に挙がってる、「上官を庇うようにして死んでいた兵卒」の話からして、後世の検証からすると人名の入替があるそうな。文集では興津大尉の従卒の軽石一等卒になってるけど、当初の新聞記事では別人だという。「従卒が」というところを強調するために入れ替えられたのだと。
この「興津大尉とその従卒」の発見時の写真も有名だけど、実はこれ、発見時に現場で撮られたものではなく、死体収容所で、演出されて撮られた写真だともいう。
……うーん、軍が発表する写真って、こんなケースが多いんだよな……「歴史を記録する」ためじゃなくて、あくまで、宣伝のための写真になっちゃう。軍関係の公式文書は常にこういうことがあるんで要注意なのだ*4

川に飛び込む者が相次いだという話は、小説や映画でも語られてるし、現代では低体温症で錯乱した典型例とされる。
美談集の中では、決死の覚悟で飛び込んだって、上官への忠誠心や勇敢さを示す逸話になる。
中で、倉石大尉が伍長に命じて飛び込ませた、という記述もあるんだが、これも謎。その前の箇所で、倉石大尉、無駄に重い荷を負ってる兵卒にそれを捨てろと命じたりしてるので、無茶な命令する人物には思えないのだが。しかしこの逸話、報告したのは倉石大尉自身だと思われるのでますます謎だ。錯乱したことを隠すために、命じたことにしたんだろか?

銃の話。
兵卒が負ってる小銃は4kg以上もあって、それがかなりの負担になった。
隊長は、銃はその場に置いていけと言ったのに、日頃、銃は兵卒の命だと教育してるのでなかなか銃を手放そうとしなかった……とな。

隊長令シテ曰ク凍傷ニ罹リ銃ヲ携帯スルコト能ハサルモノハ此地ニ遺シ置ケト一等卒曰ク銃ヲ置キマスカト此一言忽チ将校ノ脳裏ニ云フベカラザル苦痛ヲ与ヘタリ「武器ハ汝ノ生命ナルゾ」是レ平常教育者ノ口ニスル所而シテ今此反問ヲ受ク

後に川で見つかった一等卒の死体は銃を縄で身体に縛りつけていたとある。
現地の鳴沢川ってのが、硫酸を多く含むので、銃はすっかり腐食してたので、振天府(皇居にあった日清戦争の博物館)に献納された、と。
この「振天府の銃」にまつわる逸話は後々また出て来る。

付録の付録として、軍人以外の逸話も書かれてる。
地元住民の協力の他に、北海道から呼んだアイヌ達の活躍も取り上げられてる。
これもまた、アイヌ達の驚異的な活躍が大きな成果を上げた、と、イイ話に書かれてるけど、むしろ逆に書かれなかったことが気になってしまう(笑)
ちょっと興味深いのは、本文ではアイヌのことを「北海道土人」と書いてる。まあそういう時代ではあるんだが。
他の箇所では、青森の地元住民のことも、「地方土人」と書いてあって。
軍隊用語では、軍組織や軍人を「中央」、民間のことを「地方」と称する、って説明が要るかも?*5
他所から来たアイヌ達の活躍を、地元民が快く思わなかったようだ。

『凍える帝国』丸山泰明

凍える帝国―八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌 (越境する近代)

凍える帝国―八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌 (越境する近代)


事件そのものより、社会に与えた影響や反響、軍の事後処理なんかを論じた本。

遭難が明らかになって一週間もしないうちに東京や大阪では芝居として上演されてたり、見世物小屋でパノラマ展示がされたり、ってスゲエ。ちょうど今のテレビのワイドショーみたいだ。
幻灯用のスライドセット、当時は小屋で紙芝居みたいに幻灯を上映するって興行があって、この事件についても写真や絵を元にスライドが作られたのだそうな。それを著者は何セットか買い求めたのだと。

遭難碑として最初に救助された後藤房之助伍長をモデルにした銅像が建ってるのだけど(→後藤房之助 - Wikipedia)、日本の伝統では記念碑として人物像を建てることはなくて、明治時代になって初めて、西洋に倣ってこういう銅像が建てられるようになった、というのも目からウロコ。この後藤伍長の像モデリングしたのは当代一の彫刻家の大熊氏広*6(→大熊氏廣 - Wikipedia)。建立時に存命の人物の銅像を建てるってのも異例中の異例。明治時代の銅像は第二次大戦時に軒並み供出されて*7鋳熔かされてしまったけど、この像は供出されずに生き延びた貴重例。モデルの後藤伍長も強運なら銅像も強運であるらしい(後藤自身は1924年に病死)。

著者の学術論文が元だそうで、大量の文献索引はいかにもそれらしい。
そもそものその論文の切っ掛けが、遭難者の靖国問題
「遭難者が、戦死者と同列に、靖国神社に合祀されている」って説があって、その正否を辿るうちに、靖国神社そのものの存在理由を論じることになるのは必至。
結論から言えば、遭難死亡者199人*8は、靖国神社に合祀されてない。
ところが多くの本や都市伝説で、彼等が靖国に合祀されたとされてる。『遭難始末』からしてそう匂わせる記述になってる。

聞説ク陸軍省ニテハ這般ノ遭難者ハ悉ク之ヲ靖国神社ニ合祀シテ英名ヲ竹帛ニ垂レントスト
『遭難始末』P123/124

『遭難始末』は初版が1902年7月で、合祀しないことが最終的に決定されたのが06年だったりするので、『遭難始末』では上記のような記述なんだけども。
しかし、後年の版でもそのままになってるのは、復刻した人の怠惰だよな。
合祀を発案したのは当時の陸軍大臣だった児玉源太郎*9だけど、彼はこの事件の直後に別の件で辞任してたりするし。(馬蹄銀事件……かと思ったら、対ロ関係での伊藤内閣総辞職の一環なのかな)
単純に、「戦死したわけではないので」合祀されなかったのではないっていうのが靖国問題の根の深いところ。陸軍としてはなんとしても名誉の戦死扱いにしたかったのだけど、間もなく日露戦争が始まって、八甲田山の遭難事件そのものがどうでもよくなってしまった、ってとこらしい。
上記の『遭難始末』の引用の直後に書かれてる記念式典は挙行されてる。というか、この『遭難始末』自体が記念式典に合せて発刊されたもの。
戦後、自衛隊がまとめた『陸奥の吹雪』や、青森市史といった公的機関の出した本でも合祀を肯定してて、これが新田のタネ本の一つになってるのだそう。

その、合祀にまつわる議論の過程を、様々な資料を並べて論じてる。

著者が靖国神社に問い合わせたりして、「合祀されていない」で結論が出てるのだけど。
実は遭難者の中で一人だけ、靖国神社に祀られてる人がいる。
上のほうに出て来るゴム長靴履いた若大将な、倉石一大尉。軽症だったので半月ほどで軍に復帰して、日露戦争にも従軍して、05年に黒溝台戦で戦死した。第5聯隊でこの行軍から生還したうち、日露戦争で戦死したのはこの人だけ。つまり、遭難者総勢210人のうち、彼だけが、靖国神社に合祀されてることになる。
“死の彷徨”を生き延びたのに、3年後に戦死って、すっげえ皮肉なファイナルデスティネーション。
ちなみに第5聯隊自体も、日露戦争で最悪の激戦地の黒溝台戦に投入されたり、第二次大戦のときはフィリピンのレイテ島に送られて約4500人中4400人戦死したり、と、どうにも不遇な聯隊なんだ。どれもこれも上層部の判断ミスってあたり、日本軍のダメな部分象徴してるかも知んない。

「2丁の小銃の行方」
日露戦争クラスタ・金神クラスタお馴染みの三〇年式歩兵銃。
『遭難始末』によれば最終的に小銃2丁が回収されてないとある。川底深く沈んだか、どっか流されちゃったのかも、とにかく回収不能って結論付けてる。
新田次郎の小説だと、行き違った第31聯隊の一行が、途中で第5聯隊の凍死体を発見したけど、救助する余裕もなくて、だけど見捨てたとは公言出来ないので、回収した2丁の銃をコッソリ処分した……そのほうが物語としては面白いけど!
実のところ、第31聯隊の一行は、ちゃんと聯隊本部に報告して、回収した2丁も第5聯隊に返却してる。

一方で、美談集に載ってる「興津大尉を庇って死んだ兵卒」の銃と、川底で見つかった腐食した銃の2丁が、この事件の中の模範的な兵士像を象徴する遺物として、明治天皇に献納されたそうな。
その2丁は振天府から遊就館に奉納され、第二次大戦の終戦後のドサクサで処分されてしまったようだ。

つまり、未回収の2丁と、第31聯隊が回収した2丁と、振天府に献納された2丁は、それぞれ別物。
ところで、「2丁の小銃」っていうと、射撃名誉旗(→国立国会図書館デジタルコレクション - 歩兵射撃教範 P72)思い出されて、なんだか因縁めいてる。
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基本的に、振天府に献納されるのは、将校以上の記念品だけで、小銃のような兵卒の装備品は収蔵されないのが原則なのだそうな。
それが、この八甲田山事件については2丁も小銃が収蔵されたのは、それだけ、天皇が格別の関心を寄せてるって言いたいようだ。*10

「山口少佐の死」。これも、八甲田山事件にまつわるミステリーの一つ。
行軍隊の実質的なリーダー(いやホントは神成大尉がリーダーのはずなんだけど山口少佐のほうが階級が上なので神成大尉は逆らえずに振り回された、というのが定説)山口鋠大隊長は生きて救助されたものの入院翌日に死んだ。
その死について、病死(公式発表)・自殺・謀殺と、三つの説がある。
新田次郎の小説(元ネタの小笠原孤酒も)では拳銃自殺したことになってて、現実にもこの説が人口に膾炙してたりするけど、当時の医療記録からして山口少佐は手の凍傷がひどくで拳銃を持てる状態ではないので、これはアリエナイってのが研究者界隈での定説っぽい。ちなみに、「山口少佐の父親が手紙を寄越して自死を勧めた」って説もあるのだけど、そもそも少佐の父は何年も前に没してるので論外。

謀殺というのは、大惨事を招いた責任者として軍の上層部が全責任を押っ被せて一服盛った説*11。現に、第5聯隊長や第八師団長などほとんど処分されていない。
これも物語としては面白いのだけど、救助されたのが2月1日死んだのが翌2日、東京で中央の会議があってそれから工作員派遣するにも当時東京~青森間は通常でも汽車で丸一日、更にその前後は大雪で鉄道が遅延してたので、時間的に無理があるんでは。山口少佐、救助された時点でもほとんど死にかけてたし。そして当時は、東京~青森間の通信って、電信しかないのだ。日本全国を網羅する電話網はまだなくて、ローカルエリアでしかないそうで。電信は書面で通信が残るから、その記録の中にも暗殺を指示するものはない、と。――というのが謀殺説に対する反論。

『八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』松木明知

八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか改訂版

八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか改訂版

著者は、青森県在住で、本職は医師のようだ……というか今やこの事件の研究の方が本職なのか?
とにかく史料の集め方がスゴイ。出版された八甲田山事件関係の書物はほとんど全て入手してるんじゃないかってくらい。
それらを1冊ずつ論評した本。
……いや、ホントに「全て」なのかどうかは、全貌知らないけど。他で名前の挙がってる本は軒並み網羅されてる。
日本に2冊の稀覯本まで、入手しなくても、ちゃんと参考文献として牽いてる。
「反論はこれらの本を全部読んでからにして下さい」とでも言いたげな。
断定を避ける文体はいかにも学術論文書き慣れてるプロの研究者ってカンジだ。医師としての医学的知識の視点も信頼出来そうに思える。

著者は「山口少佐謀殺説」を採ってる。それなりに説得力はあるんだけど、上記の、時間の問題もあるんだよなあ。

度々名前の挙がるのが、『奥の吹雪』という本。事件の後、山口少佐の主治医だった中原軍医が、医学雑誌への論文を元に個人的に執筆した本……元々私家版として刷られたようで、2冊しか確認されてないのだと。
1冊は個人蔵、1冊は遭難資料館に寄贈されてるとある。
内容を転載した本もあるけど、そっちも稀覯本になってる。
これらは国会図書館にもない。

そこまでレアとか言われると、すげえ気になるじゃないのさ……
この著者中原軍医が、事件後数年で急死してることも、彼が謀殺の実行者だった説の一因。

他にも、出版された本でなく、手書きの手稿なんかまで俎上に乗ってたりする。

明治末期って微妙な時代のおかげで、当時の新聞雑誌やら研究書やら公式文書やら、資料や文献が大量にあるのだけど。
古い文献はとっくに絶版になってたりして、なかなか一般人にはアクセスし辛い。容易にアクセス出来る文献はちょっと厳密性に足りない、二次創作的なものばかりで。
それが、事件にまつわる都市伝説や風説の原因になってるんじゃなかろか?
いちばんアクセスしやすいのが、ちょーっと胡散臭い軍の「公式」報告書だったりするんだぜ。

この事件を参考にリーダー論を説くビジネス書なんてのもあるけど、そういうのはバッサリ切って捨てるあたりは、さもありなん(笑)
「真実はどうでもいい」なんて書いちゃうような本から、なにを学べってのかと(笑) デスヨネー

参考文献集として有り難い。
ただし2007年の出版なので、それ以降に出た本については触れられないのがちょっと残念ではある。

ちなみに。
口絵に「山口少佐が自殺に使ったとされる拳銃」の写真が載ってる。これは遭難資料館にある実物で、遺族が提供したものだという(その経緯も述べられてる)
中折れ式のヒンジのせいで、一見、二十六年式拳銃(→二十六年式拳銃 - Wikipedia)かと思ったけど、よく見たら違う。
どうやらスミス&ウエッソン model3のバリエーションの一つっぽい。(→SW M3 - MEDIAGUN DATABASE

八甲田山 消された真実』伊藤薫

八甲田山 消された真実

八甲田山 消された真実


著者は元自衛隊青森第五連隊に所属していたそうで。
八甲田山の遭難事件で生き残った兵卒の最後の一人が1970年代まで存命で、その人のインタビューテープが残されてるのだそうな。
そのテープやその他の史料から公式の文書の細部を論じる。

「消された真実」というと物々しいけど、要は、「公式発表には嘘ばかり」って結論には、何を今さらって気がしないでもない。
うーん、たぶん、著者は歴史学や、なにかの研究のプロではないのかなあ、と、ちょっと不安になる。(そもそも歴史関係の本で書名に「真実」ってつくのは、まず除外すべきだから……)

歴史って。なにか絶対的な真実がどこかにあって決定的な証拠や書類を示せば誰もが納得出来る、ってもんじゃないんだよね(歴史修正主義者や陰謀論者がよくそういう言い方をするのだけど、それって典型的なオカルトの思考だ)
無数の史料の海の中から、ぬぼっと立ち上がってくる「もっともらしい」言説が、歴史というものの正体で。史料を読む訓練を積んだ専門家達がだいたい共通して同意する事柄が「正史」となるのだ……細部では専門家同士の意見が割れてたりもするけど。*12

上記の松木明知氏の本について一切触れてないとか、参考文献が少ないとかも気になる。

著者が自衛隊員として現代の雪中行軍演習に参加した実体験、装備の重量や雪壕の作り方って、具体例は面白い。
……だけど現在の自衛隊のことを語るのに、旧軍との連続性を隠そうともしない、むしろ誇ってるのはどーなのよ、って気が。
あと、「五聯隊」とかって表記。「第」を付けないのは何故なんだ。

……いやこの本について他にもいろいろと思ったところはあるんだけど、書込のデータが全て消えてしまったのだ……orz
ごめん。

そして、koboのバカヤロ――

*1:金神で、兵士達はゲートル巻いてるので見えないし、杉元や鶴見が長靴だし……

*2:現代の米軍のケース。

*3:そもそもこの行軍自体、海岸の道路をロシアの艦隊に封鎖されたときに備えて、山の中を移動するため訓練だった。

*4:例えば、有名なとこでは、WW2の米軍の硫黄島の擂鉢山の星条旗の写真も、実際に旗を立てた後に、ポーズ付けて撮り直したことが知られてる。しかも実際に旗を立てたオリジナルのメンバーではないとも。

*5:このへん、むしろ、地方出身者が大多数な軍のコンプレックスの顕れかも知れない。

*6:金神ファンとしてはどーにもこの名前が気になる……

*7:戦前は全国各地に1万体弱あったのだけど、そのうち97%が供出されたとある。

*8:この数字もまた面倒くさくて、参加者210人のうち、死体で回収されたのは192人。生きて救助された18人のうち、入院中に死んだのが山口少佐含めて7人。退院できた11人のうち、軍に復帰できたのは3人、後の8人は手脚の切断などの重症で除隊。本によってこのへんの記述が曖昧なんだけど、「凍死者」はあくまで192人。救助された18人の状態や経過については『遭難始末』P99~に簡単に記されてる。「両上肢拇指第一節中央他ハ掌骨中央両下肢下腿中央截断」「躁狂状トナリ七日死亡」とかあるとキッツい。

*9:この事件の2年後に日露戦争満州軍総参謀長として旅順攻囲戦や奉天会戦で名を馳せて終戦直後の06年にあっさり死んだ。児玉が死んだのは、上記の後藤伍長の像の除幕式の当日だというのが面白い偶然。

*10:ちなみに銃は、兵卒が持ってる射撃手帳にいちいち製造番号が記録されるので、来歴は明確になってる。さらに当時の三十年式の製造精度がイマイチなので、同じ型番でもパーツを他の銃に流用できないそうな。

*11:なんだか、金神の花沢中将をちょっと髣髴としてしまった。

*12:実のところ、物理学や化学や医学その他自然科学の分野だって、あらゆるデータをスッ飛ばしでいきなり真実に至るわけじゃない。大量の観測データを分析して得た結論を、専門家仲間達が承認して、ようやく、定説になるわけで。