day * day

日々是々

金神189「血痕」感想 ゴールデンカムイ

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鯉登のターン!

杉尾リパ+白も気になるけど、キロランケと谷垣も気になるところ。

キロランケも急に性格変ったな……
谷垣にトドメ刺さなかったんだ。
そのへん、甘さというか、ウイルクのように冷徹になり切れない。

尾形は元々、信用のおけない、何考えてるかわからないヤツだから今更なにしようと驚かないけど。
キロランケはもっと熱い、理想に情熱を燃やす漢じゃなかったのか。

キロ、186話でソフィアと別れて以降、一言も口きいてないんだ……*1
もう、彼が語ることはなくなったのか?
アシリパさんをソフィアと逢わせてキーワードを思い出させたことで、彼の「役目」は終ってしまったということなのか?
この作品で繰返される「役目」とか「役割」って言い方は、なんだか、役目があろうがなかろうが自分が生きたいように生きる、という主体性を否定してるようにも感じられて違和感を覚えないでもない。だから、そういう「役目」を与える存在を否定して――自ら深く傷つこうとも――自我を通そうとする尾形にすごく共感するのだ。

谷垣、月島。
部下たちを傷付けられて怒る鯉登。
初めて鯉登が将校らしいとこ見せた気がする……

こういう鯉登の熱心、あるいは鶴見への忠誠心て、現代のワタシからすると、ただ忠義に篤いという以上に、もっと艶めかしい感情を妄想もとい想像してしまうけど、でも、「肉弾」に書かれるような当時の感覚*2からすると、模範的な軍人なのかも知れない。
やはりゴールデンカムイは現代の作品だし、キャラたちも実は現代的に個人主体で生きてるから、鯉登のアナクロニズムが際立つのかもね。

鯉登の叫ぶ顔、まるで杉元が「俺は不死身の杉元だ!」と叫ぶときとそっくりだ。
杉元が不死身であることに自分の存在意義を置いてて必死のときにそれがドンッと前面に飛び出してくるのだとするなら、鯉登は将校であることに自分の意義を置いてる。
将校で苦労知らずのボンボンではあるけど*3、一方で端々に見える躾の良さ、ノブレスオブリージュの意識。
このへん、単に裕福な家で何不自由なく育っただけではなくて、将来のエリート将校、指導者としてきっちり教育されてるし、性根は真っ直ぐなんだよな。

皆、成長とともに傷ついてく。
ゴールデンカムイ』全体通して、網走篇までの前半が、凶悪犯や猛獣達との戦だったのに、後半はメインキャラ同士の戦になって、切ない。
それが、金塊探しから、神を探すって目的が変ったいったことの証左なのかも知れないが。

鯉登とキロランケ、もしかして今回が初対面??
いや、師団で顔合わしてたりするのかな?
初対面でいきなり殺し合いとかだったりすると、個人的には燃える。

最後の、この言葉。

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ヤングジャンプ no.1909)

「天から役目なしに降ろされたものはひとつもない(カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム/kanto or wa yaku sak no a-rankep shinep ka isam)」

単行本の紙本ではカバーにずっと書かれてるんだけど、漫画の作中には出て来ないし、本誌連載で出てきたのも172話の扉が最初(いや、76話以降しか本誌を買ってないから、それ以前に出てきたかもしれないけど)。
アイヌの宇宙観の中心とも言われる。

私は、この言葉、(幕末の僧釈月性の詩句にある)「人間到る処青山あり」と似たようなニュアンスで捉えてる。
その者がどんな生き方や死に方をしようと、結果的にそれがその者に「天から与えられた役目」や「死に場所」であって、それを前もって知ることは出来ないと。

前にも書いた(→金神184「流氷原」感想 ゴールデンカムイ - day * day)し、このブログなんかで何度も繰返してるけど。

この物語では、全体を上から俯瞰して、登場人物達を見通したり断罪したりするようなキャラがいない。
それが出来るのは唯一、作者である野田サトル氏だけで、作中には作者の分身であるようなキャラは一切出て来ない。
どのキャラも作者(=物語世界の神)の意図を知らない。
登場人物達は、あくまで物語世界の中で、自分の価値観に従って生きてる。
作者が、キャラ達に、生き方を強制もしないし。
安っぽい小市民的倫理観で断罪しようともしない。
そういうとこが、この作品の好きなとこ。

*1:土壇場まで喋り続けた尾形に対して。

*2:疑似家族のような軍隊組織とかね。

*3:いやこれでもし鯉登にも、尾形や月島に劣らず苛烈な過去があったとしたなら、それであの性格なんだったら、それはそれてむしろ逆にスゴい。なんという鋼のメンタル。